2009年7月27日:哲学かもしれない旧い日記
※旧い日記です。Seesaaブログから引っ越しました。
たぶん、真にしあわせなヒトは世界にいない
そういう意味では、
「どうして不幸なんだろう」とか、
「幸せにならなきゃ」とか、焦ることはない
死を選ぶことも、焦りすぎている
成功や安定は、真の意味でのしあわせではないからだ
たとえば、
真横に不幸なヒトが居たとしよう
どうだろう?
自分はしあわせだろうか?
空腹でがりがりになって、寒さに震え倒れている、
いまにも死にそうだ
「あー、自分は、幸せで良かった」って思える?
悲惨な事件やニュースを聞くたび、
人間はどこかで傷ついているのだと思う
<たった一人でも不幸なひとが居たら、人間は幸せになれないのだ>
世界で、最後の不幸なヒトが居なくなるまで、
まだ、何千年もかかると思う
だから、今、自分が不幸でも、慌てなくていい
ダライ・ラマ14世は言う
"できるかぎり人を助けなさい
もしも、助けることができないなら、
少なくとも、
他人を傷つけるのをやめなさい"
<たった一人でも不幸なひとが居たら、人間は幸せになれないのだ>
イエスや仏陀やマザーテレサなどは、
そのことを知っていたんじゃないかな?
なぜ、生きていくのか?
・・・しあわせになるためなんだ
そのしあわせのゴールは、とんでもなく長い道だ
68億から増え続けていく人間、動物、植物、無機物、
みんながしあわせにならなくちゃいけない
自分がしあわせになるためには、不幸なヒトを助けなさい、
不幸なヒトも、もっと不幸なヒトを助けていかなければ、
自分もしあわせになれない
みんなも、1日に1人、助けないですか?
電車でお年寄りに席を譲る
悩んでいる友人の話を聞く
せめて、1日1回10円でも募金箱に募金する
そして、それが出来なくても、
ダライ・ラマの言う、
「他人を傷つけない」ように(←甘やかすのとは違う)、
生きていこうではないか?
目指せ、しあわせ!
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