2010年3月16日:哲学かもしれない旧い日記
※旧い日記です。Seesaaブログから引っ越しました。
宇宙からの視点で見ると、
誰も間違っていない
自分から見て、
相手が良くないと思っても、理不尽であっても、
それは、間違っているわけではないのだ
戦争で、相手が間違っていると思うから攻撃するのであって、
相手もひとつの人生の「選択」だと思えば、
攻撃する必要もなくなる
宇宙からの視点では、
善も悪も対して違わない
宇宙はけっこうルーズに出来ているみたいだ
重大な決断を選ぶときがあったとしよう
どちらを選んでも、正解も間違いもないのだ
たとえば、
生を選ぶか、死を選ぶかについても、
宇宙の仕組みには、
なんの変化ももたらさない
宇宙は、ただ、その「選択」を受け入れるだけなんだ
では、宇宙の仕組みと生きることの意味を考えてみよう
生や死でさえ、その違いがない仕組みが宇宙にはある
わたしたちは、
良いこと、悪いことというカテゴリーをつけたがる、
そういう制約に縛られている
ちょっと待って!
その制約は「誰が」創ったのだ?
叩かれると痛い → 不快 → 悪いこと
つまり、わたしたちの肉体(物質)が創ったんだね
物質世界にいる限り、
生や死の違いがない、という概念を理解できないだろう
さて、そこで、生きることの意味を考えてみよう
実は、「生きること」に、意味はないのです
物質的な制約のなかで物質が流れているだけであって、
あまり、宇宙の方向性(または意識、概念)とは関わりがない、
宇宙は、ものすごくルーズ、
または、機械でいう遊びの部分で出来ていて、
なんでも、「受け入れて」しまうのだ
だから、わたしたちには、
なにを選んでも、「間違い」ということがない
結果、誰も間違っていない
さて、生きることに意味がないのなら、
死んだっていいわけだが、
わざわざ、死ぬ理由もないわけだ
なら、物質世界を生きていてもいいのではないか?
まあ、どんな生き方をしてもいいのだが、
なるべく、「楽しく」生きてもいいのではないか?
なんとなく、
「頑張れ」ば、幸せになれるような気がするんだけれど、
頑張って、頑張って、そこに幸せがあるのだろうか?
結局、制限された物質のなかでの快楽でしかない
人間関係しかり
誰も間違っていないのだから、
もう少し力を抜いて楽にしてもいいのじゃないか
あまり、自分の主張を推し進めて、
自分を制約してしまうと、
結局は、自分の重しにしかならない
(まあ、そこに自分の幸せがある、と信じて頑張るのも自由よ)
自分を制限しないこと
自分を苛めないこと(←苛めてなんの得がある?)
一日一日を、
物質があるから得られる楽しみを味わって、生きよう
分かるかい?
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